人であれば、一度くらい、朝覚醒したときに、今いる世界は夢なのか、現実なのかを、ほんの一瞬かもしれないが、わからなくなってしまうことを経験する。
しばらくすると、夢は終わりを告げ、現実の世界に戻っていることに気付く。
布団の中にもぐりながら、半分眠りに入りつつ、原稿を書く習慣が知らず知らずに身に付いた。
翌日、原稿を想起し、原稿を仕上げる。
最近は眠りに深く入り、翌朝、昨晩書いた原稿は「一体何だっけ…」と想起できない。
危ない状況である。
保存を忘れ、しかも認知の衰えを感じつつ、今、第二話の仕上げ作業中である。
昨晩の夢の一部である。
コインが床の上をクルクル廻っている。
眺めると、コインの表裏の違いが見える。
コインの表が<必然性>とすれば、裏が<偶然性>である?
理系の人間らしく、これまでは再現性を備えた、必然性あるサイエンスを追求してきた。
それゆえ、前回の第一話では、偶然性の連続を描きたかった。
今回の第二話は、その続き。
今回の変化は難しい…実はとても簡単。
前作は、純度99%ノンフィクションである。
残り1%はフィクションである。
その場の気分で、わずか1%であるが、実際とは異なる原稿を書いた。
ただ、あらすじに大きな影響を与える内容ではなく、完全な純度100%であっても、純度99%であっても大差はないとそのときは思っていた。
最近のいつもの口癖。
ところが、である。
そのときの私の気分で、たったひとつの単語を実際の現実と変えた。
私にしてみれば、よくあることである。
そのときの気分次第で思いのままに変化する。
その気まぐれが、必然性に別れを告げ、新たな偶然性を導くとは、正直なところ、夢にも思わなかった。
気まぐれさが、さらなる偶然性を呼ぶのが、第二話である。
一番驚いているのが、実は私である。
笑うしかない。
思いつくままに、反応してくれそうな人を見繕い、数人の人たちにメールを出した。
内容は至極簡単。
お騒がせいたしました。ブログを再開しました。タイトルは…ですという短文のメール。
思いもよらない返事で、私を刺激してくれそうな人をセレクトし、一方的なメールを発信。
が、メールは戻って来ない。
無反応…呆れかえっている?
第一話は失敗かも?思っていた矢先に、ある道の本物のプロフェッショナルの方から数行の返事が戻ってきた。
内容を見て、びっくり仰天。
私にない視点。
が、職業的に持ち合わせていないといけない視点。
私にはどうしてこういう見方が、なぜできないのか?と自責の念が湧く。
その人曰く、
幻月は、クライアントにしか見えない、クライアントの心の反射月。
それは治療者には盲点。
だからこそ、治療者はクライアントの身になって、クライアントと同じ月が見えるかどうかを確かめてご覧…寓意…身につまされる思いがした…。
最高級の言葉の連弾。
身につまされる思いがしたのは私の方である。
私は鈍感過ぎて、言葉にしびれないタイプの人間であると思い込んでいたが、しびれることもあることを自覚できた。
偶然が偶然を呼び、その偶然がまたさらなる偶然を呼ぶ。
私は、単なるスタッフのところを、<カウンセラー>という言葉に変えたに過ぎない。
それが、わずか1%のフィクション…結果的にとても大きな呼び水になった…。
数日後に、先日の夢の続きを見た。
同じ夢を何度も見ることは誰にでもある。
が、連続ドラマのように、一度見た夢の続きを見ることがあるという話はよく聞くが、私は経験がなかった。
前回の夢で見たコインは相変わらず高速で廻っていたが、徐々に駒が止まってしまうときと同じように、徐々に回転数を落としている。
そして、最後にコインは止まった。
止まったコインを見て、
<偶然の偶然、さらなる偶然の連続>と思っていたが、その正体は<必然性>であることに気付いた。
コインが止まるまで気づかないとは?