

令和八年八月五日。
あり得ないことが起きた。
おそらく、同じ光景を二度と見ることはない。
朝九時から、千駄ヶ谷の日本将棋会館で、藤井聡太は広瀬章人と伊藤王座への挑戦者決定戦を行っていた。
勝てば、昨年伊藤さんに奪われた王座のタイトルのリターンマッチになる。
六冠から七冠に向けての逆襲の第一歩である。とても大きな分岐点。
朝十時、診療前にパソコンを開くと、すでに何十手も進んでいる。二人の研究範囲内であるため、序盤は驚くほど速く進んでいた。ここから、約十二時間に及ぶ闘いが続く。
診察スタート以後は、診療が途切れたときに、画面で表示されているAI%を見る。
素人の私では、どちらが優勢か判断できない。
そういうとき、AI%でおおよその形勢判断ができる。
空にたそがれが広がり、夕食を注文する頃には、藤井さんが優勢を大きく拡大していた。
すでに雌雄は決したように思えた。
夕食に何を注文するのかと思いきや、藤井さんが選んだのは、七百円のバナナチョコクレープだけだった。
一方、広瀬さんは千円のハンバーグ定食を注文した。
画面には、注文したメニューのアップと価格が表示されている。
広瀬さんが鞄から財布を取り出し、おつりを確かめながら現金を払う姿まで、カメラは映し続けていた。
藤井さんの頭の中では、すでに対局は終わっていたのかもしれない。
映画館では、エンディングの音楽が流れ始めると、席を立つ人がいる。彼もまた、最後の一場面を残して、すでに席を立っていたのかもしれない。
ところが、映画は終わっていなかった。
藤井さんが読めない局面ではない。彼が読めないのであれば、AI以外に読み切る人はほぼ皆無。
それくらい絶対的な勝ちを確信できる局面であり、彼は自らの思考を停止させたのではないかと思う。
安全第一に指したはずのその一手が、皮肉にも大逆転を招く悪手になるとは、彼自身も想像していなかった。
その結果、あり得ないことが起きた。
AIだけが、一秒にも満たない瞬間に、大逆転を告げた。画面には、AIの%が大きく振れた。
解説者は、「AIの%は見たらだめですよ」と、もう一人の若手の解説者に対して、笑いながらお説教を始めた。解説者には、まだ何が起きたのかわからない。
一人が気づき、もう一人が気づく。数分遅れて、人間の時間がAIに追いつき始めた。
彼は天国から地獄に落とされた。それから優劣は風見鶏のように反転、また反転。数時間後に勝敗が決まった。見ている視聴者でさえも、脳疲労をこれほどまでに強烈に感じさせられる日はそうはない。
二人の対局者は、想像を絶する精神的な疲労で大変だったであろう。
数時間前まで、彼は勝利を確信していた。ところが終局直前、その表情には、敗北を悟った者の深い失意が浮かんでいた。
あれほど落ち込んだ彼の姿を、私は初めて見た。
彼も、人の子であると思った。
いやそうではない。彼は、人間の殻から、ようやく脱皮した。
近い将来、鉄壁の読みが再構築され、数段凄みを増した彼が戻ってくるであろう。
そのとき、彼を追いかけようとする者さえ、いなくなっているかもしれない。