

風が止まり、庭だけがゆっくり呼吸していた。
コトン。
庭のどこかで、時間が落ちていた。
北陸方面に旅行に出かけた。
ある旅館に宿泊。
そこには、日本の風情がある庭園がある。
辺りはシーンと静まり返っている。
と思えば、聞きなれない音が聞こえる。
耳を澄ませば、コトンという音が一定の間隔で落ちている。

音を頼りに辺りを見渡すと、獅子落としがあることに気づく。
水が満ちていく気配だけが、庭の空気をゆっくり押し広げている。
この世の静けさが、ひとつの点に集まっていくような時間。
ここでは、声を潜めることが自然なようだった。
空気そのものが、静けさを守ろうとしている。
その静けさの奥に、別の緊張が潜んでいる気がした。
仲居さんによれば、先日、藤井さんのタイトル戦がこの旅館であったと言う。

仲居さんは続けた。
「あの方は物静かな雰囲気を持っています。対局が始まると、眼では感じられないのですが、画像にも映らない緊張感が漂います」
「すぐにわかるものですか」と尋ねると、
「ええ。言葉では説明できませんが、どこか違う空気をまとっているので、この人は普通の方ではないとすぐにわかります」と笑った。
藤井さんの対局には、静けさの奥に、張りつめた糸のような気配があると聞く。言葉では説明できないが、ただそこにいるだけで、空気がわずかに変わるのだと。
彼の静かな横顔の奥にも、あの一秒の熱狂があるのだろうか?
獅子落としの音が、一定のリズムで鳴り続けている。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に昔の緊張がふっと蘇った。
学生時代は賑やかでワイワイやっていたが、音のない世界に瞬時に入り込んでしまう経験を思い出す。
学生時代、五秒将棋で脳を鍛えた。
次の一手を、五秒以内で指さないといけない。
瞬間的に次の一手を頭に思い浮かべることができるかどうか?
その場限りの手では勝てない。
数手先の局面を正確に描いた、一枚の風景画が見えるかどうかに尽きる。
外界の雑音を消し、過集中の世界に浸る。
激しい騒音の渦巻く街角であっても、その音さえも耳に入らない極度の緊張感。

秒読みはトキを刻む。
五、四、三、二、一と時間が徐々に消えていく。
五のとき、脳の急激な加速が始まり、超高速回転へ。
四のとき、選択肢は二つ、三つ脳の中に自然に浮かぶが、どれが正解かを読み切る。
ひとつひとつ検討し、どれを最終選択すべきかが見え始め、利き腕が、将棋の駒を握ろうとする。
三のとき、念のため、確認作業を一秒間で行う。
考え直し、駒を持ち直すこともある。指先がジーンと熱くなる。
二のとき、後戻りできない最終結論を出す。背中に汗が一筋だけ流れる。
一のとき、覚悟を決めて指す。そのとき、鼓動が、秒針と同じ速さになる。

数時間、五秒将棋で頭を鍛えるとその疲労は尋常ではない。
五秒の沈黙は、永遠より長く感じることがある。
学生会館を後にする頃は疲労困憊。
周囲の音が、耳に入らない。
五感を使う余裕はない。
プロ棋士が消費するグルコースは半端ではない。
とりわけ、甘味の皿だけが、次々と空になっていった。
タイトル戦で、一日五食しっかり食べても全然太らない。
静寂を破るように、竹がひとつだけ小さく跳ねた。
庭の影がふっと揺れ、乾いた音がひとつ落ちた。
その音で、回想を脱して我に返る。
音が落ち、庭が深く息をついた。目の前の光景が、少し遅れて輪郭を取り戻す。

その音が完全に消えたあと、庭はさらに深い静けさへと沈んでいった。
しばらくすると、獅子落としの音が聞こえてくる。
コトンという音は、注意深く聞けば、絶え間なく聞こえる。
都会の雑踏では決して聞けない、この落ちる音に出会えただけでも、
旅の意味は十分だった。
コトン。
音がひとつ落ちた。
その小さな音が、庭の静けさをさらに深くしていった。
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